シアターピエロ

How are you getting along these days, baby?

この骨を埋めてくれるのは

一昨日くらいに書き損ねたとか言ってたやつ

>「死んでしまった人のブログは残るのか」という、
>そういうものを真ん中を据えた内容でした。

この一文に関連したどうでもいいかもしれない個人的な話 舞台とはまったく関係ないのだよ(私、見てないからね)

ぷらす、この部分

>ブログって、書いてる人いると思うけど、
>わたしにとっては、ブログは文字通りの日記じゃないのです。

>生きる足跡なのです。


話があっちこっち飛んでまとまりがないから脳をぼんやりさせて読みませう
あるいは、読まない←何

生きる足跡で思い出した、
私が2009年に書き散らかしていたこと ニュアンスは違う
「アルバムや文章は生きた記録だけど、カルテというものは生きるための記録
じゃあ死んでしまったらそこにあるのは何だ
死亡、って紙が貼られたカルテを見るたびに不思議な気分になる」

歯のトラブルや歯科治療が原因で死ぬことはめったにないので(ただし歯周病は全身病に繋がるので死のリスクは高まるぜよ)
あまりしっくりこないかもしれないけど、私的には、歯科のカルテも生きるための記録だのです
食べることは生きることだしね
ハイパーぐきゅるから満腹になると、生きてるわあー、って実感しますでしょ
いいえ別にしませんけど…という方は すまん

歯がなければ、満足に咀嚼できなければ、食事は難しいですね
そりゃあ、歯がなくても食べられる食事もあるわね
流動食とかペースト食とか 飲みこむだけで栄養が補給できる
なんなら経口投与なしで、点滴のみで生命を維持することだって可能
だけど、むしゃむしゃ咀嚼して、うまー!とかいって食事できるほうが、よかろ?
噛まなきゃボケるし 歯は大事です

なので、カルテは生きるための記録
だからカルテの持ち主が亡くなった瞬間、生きるための記録、ではなくなってしまうのですわね

死んでしまったらそこにあるのは何だ、って書いたけど 生きるため、ではなくなるわけだから
アルバムや文章(日記)のように、生きた記録に変化するということでよいやもしれません
身元の特定に役立てる場合も、もはや「生きるため」ではないしね…

何月何日に、この歯科医院でこのような治療をしました
残るのは事実のみ
タイミングによっては、やっぱりちょっとばかし、むなしい気持ちもありますわね
入れ歯が完成してから間もなく、持病が悪化して亡くなった場合とか とても切ない


で、ブログの話に戻る
2011年は、

「ゆくくるvol.1に行けなくてはげしく涙目だし、つっこさん10周年イヤーだし
全力で追いかけてやんよ、気合いを入れるために毎日更新してやる、
書くことがなくても毎日何かしらの記録を残してやる、ちくしょう!」

な気持ちと、あくまでも自分用で人のためのものではない、とはいえ、ネット上で公開しているわけなので

「面白くもなんともなくても、1日1回は必ず更新される、となれば、そのことに安心感を覚える人がいるかもしれない
こいつ毎日飽きもせずよくやるわ、とかいって、鼻で笑ってもらえるかもしれない」

な気持ちで、毎日更新でした 3月はさすがに…、でしたけど
それ以外はたまにせこいことしつつ(笑)なんやかんややり遂げました
なおかつつっこさんのことも、ものすごい勢いで追いかけました ほう

生きた記録、とは若干ニュアンスが異なりつつも
生きる足跡、は、まさにその通りで
残さなければ消えていく 消えても構わない些細な出来事もそうでないことも
これまでとこれからを繋いでいく形あるもの です
今年は毎日にはこだわらないけど、やっぱり残しておきたいですね
どうでもいいことを中心に

どのぶろぐもそうだけど
基本的には、自分に都合のいい部分しか書いていないと思うのですよ(笑)
8割が主観 なおかつ、素のままを謳っていたとしても、多少は取り繕う部分、ありますわね
見えているのは、その人の、ほんの一面

実際に対面して、会話するとまた印象は変わってきますし
なんなら北海道在住でお肌の曲がり角にさしかかった女というのは真っ赤な嘘で、
このブログを書いているのは宮崎在住で肌がどうとかそういう次元を超えた年齢のおっさん、
という可能性もあります
たまにある自撮りや、ライヴでみなさまが見た女は影武者(おっさんの娘)、みたいなね
それもまたいんたねっとの面白いところです ふふふ

ま リアルでも嘘で身を固めている人も、いるでしょうけど それ考えるとキリがないからやめにして

更新が途絶えて何年も経っているブログやサイト、星の数ほどあります
更新していた人が死んでしまったのか、単に飽きたのか、ログインパスワードを忘れたのか、は不明ですが
誰かが故意に消さない限り、ページの期限が切れるまで物理的(というんだろうかデータの場合…)には残ります
なおかつ、閲覧者がいれば、人の記憶にも残ります
件の舞台は、後者のことを言ってるんじゃなかろうかと勝手に想像をめぐらせつつ
うっかりネタバレ読みそうなので大筋とかぐぐれませんでね、憶測でのみ物を言っています…

他人に認識されていなければ、自分が存在していたことは証明できません
自分のことを覚えている人がこの世からひとりもいなくなったとき、あるいはすっかり忘れ去られてしまったとき、
そこが、本当の死だよ、とか、言いますね 言わんか…言うはず(朧)

だから
写真を撮るのも、歌詞を書くのも、曲を作るのも、歌を歌うのも、絵を描くのもぶろぐ書くのも えとせとら
なにがしかの形あるもの、形はなくとも伝えられるもの、を残したいというのは
私はここにいるよ(←テルマ)、あるいはいたよ、的な気持ちが原動力になっているのかしら
いいえ別にそういうつもりじゃありませんけど…という方は す(略)
あと 「何をいまさら?」とか思った方にも s(略)

このあいだ蟲はつっこさんに「なぜ人は子供を産むのか」てな質問を投げかけましたの
そしてはげしく納得、な解答をいただきまして なおかつ「これは子供に限ったことじゃないかもなあ…」
とも思いまして 上記の話にも繋がる、とかなんとか そう とりあえず読めばいいと思う←何様
天野月携帯サイトで、読めますので(1月14日、蟲からのファンメールです)


言うてね
結局何が言いたいかというと、生きていようがいまいが、
誰にも認識されていない人は、死んでいるも同然ってことですだ
…最後の最後にはげしく投げやりになってもうた
ながながと失礼いたしました

ぐんない

天野月子/Stone